はじめに
デジタル・デトックス(Digital detox)とは、SNSやスマートフォンやコンピューターといったデジタル機器の使用を自発的に控えていくこと、またその期間のことである。
男もすなるデジタル・デトックスといふものを、女もしてみむとてするなり
2020年でTwitter歴10年になるのですが、ここらでTwitterを絶とうかなと思っております。 とはいえTwitterはやはり便利なので、よいあんばいで付き合っていこうかな、という具合です。
Twitter断ちする理由
Twitterを絶とうと思った理由として、まあいろいろあるんですが、
- Twitterの思想傾向が、年々、左にも右にも極端に寄りすぎている
- Twitterの特定のクラスタにおいては全体主義的なもの、排外的なものを感じるようになった(異なる思想に不寛容である)
- Twitterでの議論が(ずっとそう言われ続けてはいたが)近年より不毛なものになった(歩み寄れない。お互いが納得する議論を交わすのではなく他方が屈するまで殴り続けるようなもの)
- Twitter内での異なる意見をもつ他者の言論を、他者のプライベートを危機に追いやるような形で排除しようとする攻撃的な行動について、Twitter (Twitter Japan)が介入をしないことへの失望
(ここで書く Twitterの
というのは専ら僕が構築したTLでしかないのですが、10年こつこつ増やした1500くらいのフォローは、あるジャンルにおいて有益であるからフォローしたので、特定の信条だからフォローしたとかそういうのではなかったりします)
僕は未熟な人間なので、ある種のヒステリックさを感じると心身に影響が出てしまうので、そういった人を極力遠ざけるようにしています。どんな人であれ。 現在のTwitterは集団ヒステリックなものを感じます。それにモロに影響をされるのは、僕が僕であることが妨げられてしまうので、遠ざける必要があったというところです。
無論、今すぐに断ち切るのは難しく、Twitterでしか馴染みではない素晴らしい人々や情報も多いので、段階的に自分のTwitterの “毒素” を薄められるようなエンジニアリングをしていければなと思います(例えばフォロワー管理ツールとか、ミュートワードの自動登録とか)。
“虐殺器官”
意思表明をしたついでに、いまTwitterに対してどう思っているかを書き記しておきます。
Twitterは伊藤計劃の「虐殺器官」によるところの"虐殺器官"なのかなと思うようになりました。 “虐殺器官"が何なのかはネタバレになるのでぜひ小説を読めという話になるんですが、ある人物のいるところではどれだけうまくいっていても紛争が発生して民族同士で殺し合う状況が発生するという。ある人物は"虐殺器官"を駆使してそれを仕向けているのだ――というような話です。
Twitterはありとあらゆる人のボーダーをなくしたが、“ありとあらゆる人"がそうなったので、そういった状況に慣れていない人も繋がることになった。それがかつてあったアルバイト店員がしょうもないことをして炎上するものです。しかし「バカッター事件」はあくまであらゆる人が繋がった結果です。慣れない人が繋がることを強いられたとき、今度はつながる世界でクラスターを形成しはじめた。あるクラスターで繋がる動機付けとしてイベントが必要になる。それがいま"フェミニスト"と"アニメオタク"がパブリックスペースでのアニメイラストの表現で揉めていることなのかな、と僕は思ったりしています。
Twitterは、人と人が繋がるシステムであるからこそ、(人と人が繋がることで良い結果を生み出すのと同じくらい)人と人が衝突することは避けられないのですが、繋がりが可視化されるからこそ、不必要な衝突も相当に起きているように思います。 これをこの後も続けていけば、いづれTwitterが理由で人が死ぬことだってありうると思う(既に起きている可能性だってある)。これを"虐殺器官"と呼ばずしてなんと言うべきか?と僕は思いました。
おわりに
デジタル・デトックスという割にはTwitterのことばかりになったが、まぁ俺のやっているSNSはほぼTwitterだったので。。。 まぁこのように表明したけれど、意見変わって出戻りする可能性だってあるので、そのときはご笑覧いただければと思います。