河野さん( @nanbuwks )とオープンラボ岡山へ向かう途中で話したこと。
1970年代の人は、30年後の我々は金色のタイツスーツに身をまとい、空飛ぶ自動車が飛び交う未来を想像していたそうだ。
これは、1940年代~70年代の技術革新・躍進が続けばそうなるという過去の延長線上から未来を推定したものだった。
実際のところ2010年になっても空を飛ぶ自動車なんて出てきていないし、金ぴかのスーツとかださすぎてだれも着ていない。
今、俺は20歳だけど、自分が30年後・・・つまり2040年・・・の未来はどうなっているか?という問い。
俺は、「手に持つモノが高密度化すると思います。もっと高性能になる。」という感じの答えをだした。
さて、話は戻って1970年代からの進歩について。70年代の人が30年後の未来に想像しておらず、
それでいて飛躍的進歩を遂げたモノがある。電話やインターネット。
格安の情報のハイウェイから、データ自体は無料で手に入る。そんな時代は70年代の人にはほとんど想像できなかった。
同じことがこれから30年後までに起こるとしたら、俺たちの空想などというものは殆ど外れているかもしれない。
ところで、もし今後30年までに起こることは何かと考えると、有力なのが「人工知能」だと河野さんは言った。
現在の情報機器の進歩をみるに、人間の脳を再現できるのに残り20-30年ほどで到達できるようだ。
そうなると脳のコピーが制作できることになる。となると自分のコピーが存在することになる。
自分のコピーが熱風吹き出す四角い箱になるかどうかは分からないが、
チューリングテストなんかであるように、入れ物自体を隠してしまえば、
人間と電子の箱の差などと言うのは皆無である。
では、コピーがあるならオリジナルを破棄することはたやすいことか?
つまり、俺自身が、俺自身のコピーがあるからと言って自らを殺すことができるのか?
なんとなく、書籍の自炊に似てると思った。
デジタルのコピーがあるならアナログのオリジナルは破棄してもいいと言える。
だが書籍に意志はない。というか状況が違う。
俺はこの問題は考えてはいけない問題じゃないかと思った。
オリジナルのコピーがあって、それがforkされたとたんforkされたコピーは自分の意志をもつ。
二度とマージされることはない。無理矢理マージしようとするとコンフリクトするだろう。
ちょっと・・・この問題は怖い。俺のコピーは俺ではないのかも知れない。。。
さて、あなたはどう思いますか?